『風にあたる』は、二〇一九年七月に短歌研究社から上梓された山階基の第一歌集。二〇一〇年から二〇一九年までの作品三百四十六首が収められている。短歌研究新人賞次席、角川短歌賞次席、現代短歌社賞次席、未来賞受賞など数々の輝かしい実績を残してきた作者の第一歌集を待ち望んだファンは多かったのではないだろうか。

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 この歌集を読んでいてまず思ったのは、他者に着目した歌が多いなということだ。

ヘアムースなんて知らずにいた髪があなたの指で髪型になる
手に揺れる素朴な舟はたこ焼きを乗せてあなたの隣をゆくよ
ともだちよパン粉を海老にまとわせてゆるくおさえる指うつくしい
さきに逝くならばはるかな指となりあなたの走馬灯を回そう
なれるなら夏のはじめの夜の風きみのきれいな髪をかわかす


 この歌集には、これらのような「あなた」や「きみ」を詠んだ佳作が多い。一首目は、「あなたの指で髪型になる」という表現によってなにげないヘアセットの一場面がかけがえのない一瞬として描かれている。二首目は、手に持っていたたこ焼きの舟が「あなたの隣をゆく」ことによって美しい本当の舟となったのだ。三首目は、美しいのはエビフライではなくそれを作る「指」というところに意外性と味わいがある。四首目と五首目はいずれもやや観念的な歌だが、「あなたの走馬灯」「きみのきれいな髪」という表現が光っている。
 これらの歌の「きみ」や「あなた」は、目の前の世界を美しくしてくれる、素敵で愛すべき存在なのだ。これは単なる偶然かもしれないが、引用した五首はいずれも手触りを感じさせる歌になっている。「きみ」や「あなた」に触れようとする過程で世界に目を向けるのが山階短歌の方法論の一つなのかもしれない。

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おしぼりの熱を押しあてすべて目が見せるまぼろしこの世のことは
もしかして使い切る前に死ぬかもドラッグストアで小箱をつかむ
くちぶえの用意はいつもできているわたしが四季をこぼれたら来て


 これらの歌にみられる「人生観」もなかなか面白いと思う。この世のことは/すべて目が見せるまぼろし」だという一首目。ドラッグストアで手に取る「小箱」に潜んでいるわたしたちの油断のようなものを明らかにした二首目。特に印象的なのは、三首目の「わたしが四季をこぼれたら」という表現だ。この歌集の後ろから二首目に収録されているという配置も意味深で、最後の一首〈炎天にうねるホースのしぶきから生まれる虹を消えるまで好く〉と並べて読むとさらに意味深である。わたしはここから「死」のようなものを感じ取ったのだが、(穿った見方かもしれないが)もしそうだとしたら、人はみないつかは四季をこぼれ落ちてゆくということになる。なるほど、と思った。おしぼりの熱を押しあてるときも、ドラッグストアで小箱をつかむときも、わたしたちは四季にしがみついているのかもしれない。歌集のタイトルになっている「風にあたる」というのも、風は一年中いつもわたしたちにとって身近であるという意味で、わたしたちの「生」をあらわしているのだろう。

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 最後に技術的なことに一つ触れておくと、この歌集は結句のバリエーションが非常に豊かだと感じた。これまでに挙げたものの他に気に入った歌をいくつか紹介してみる。

くす玉が引いた紐ごと落ちてきて床にくずれたようなさよなら
ティーバッグ降ろした皿は濡れはじめいずれ渡って行く鳥のよう
菜の花を食べて胸から花の咲くようなすなおな身体だったら
リコーダー奏者になった友人はいないあんなに吹いていたのに
もうおなかいっぱいだから缶ビール開ける音だけもらっておくね
ではまたと手を振るかわりゆらゆらと抱えた椅子をゆすってくれた
納豆のパックをひらくつかのまを糸は浮世絵の雨になりきる


 (散文と差別化を図ろうとする意味で)結句をどのように加工・処理するかが口語短歌の難しいところであると思うのだが、山階は体言止め以外のさまざまな魅せ方を巧みに使いこなすことのできる現代歌人の一人だ。特に、三首目の「~だったら」という着地のさせ方は秀逸である。

菜の花を食べて胸から花の咲くようなすなおな身体になりたい (改作例1)
菜の花を食べて胸から花の咲くようなすなおな身体でいたい (改作例2)
菜の花を食べて胸から花の咲くようなすなおな身体を求む (改作例3)


 普通はこのような表現になりがちではないだろうか。こういったテクニカルな部分がもっと評価されるべき一冊だと思う。本書の他、私家版歌集『風にあたる拾遺』(二〇一九年十一月・四百九十五首収録)などをもとに、今後さらに山階作品が価値づけられていくことを期待したい。


初出・『かばん』2020年4月号 今月の一冊